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名瀬へ

 鹿児島時代に神経痛で父の体は衰弱してゆき、手がけていた大島紬の製造は負担になるからと、販売の仕事に変わりました。
昭和7年の11月、鹿児島での商売が思わしくなく、また、父の体調も悪化したため、私が7歳の時に、故郷に近い、また人口の多い名瀬へ家族で引っ越しました。

 この時、名瀬行きの開城(かいじょう)丸という船の甲板で食べたリンゴのおいしかったこと!幼かった私は、無邪気な遠足気分でありました。

名瀬に移って2年目に松名屋呉服店という店舗を構えましたが、これは4年ほどで閉鎖することになります。

 名瀬に移った昭和7年当初、私は鹿児島訛りがあり、自分のことを「あたいが…。」と言っていたので友人たちには『あたいが』と呼ばれていました。
幼児期を鹿児島で過ごしたせいか、聴く分には全く問題ありませんが、私は、いまだに奄美の方言(島ぐち)を話せないのです。

 この頃、我が家には、姉2名とおとなしい2歳上の4男・英輔兄だけで、病弱だった父も大変優しい人でしたから、私には叱られたという記憶がほとんどありません。それで弟たちを従えて、おおむね意のままの日々を送っていました。

同級生

 大野貢(みつぎ)君は、私と家が近所で同級生、しかも彼の親戚の山田かえ姉さんが、長女・兼子姉の同級生で、大野家に下宿していたか、お手伝いをしながら奄美高等女学校へ通っていましたので、そういう縁もあって特に親しくしていました。

 彼との交友は70年後の今日も続いています。
60歳を過ぎてから、後述する楠田豊春さんの勧めでゴルフを始めた彼ですが、同じく私の同級生の美佐利雄君が、
「あの運動神経の鈍い大野がするくらいなら、我々にもゴルフは出来るだろう。」
と誘ってくれたので奄美カントリークラブのオープンと同時にゴルフを始めました。
私たちにそのきっかけを作ってくれた彼・大野君とは今も連れだって細々とゴルフをやっています。