坪山豊の世界

■音の記憶

「音の記憶は大きくなると里帰りするから、幼いうちに島唄に触れさせておくことが大切」。
これは、唄者・坪山豊さんの言葉である。

私の仕事は、セントラル楽器での奄美島唄のCDやテープ等の制作・販売・普及だ。
島口を聞いても意味が分からない若者たちに、島唄を普及・継承していく事は大きな課題だ。

坪山氏のこの言葉は、私が島唄普及を考える上での指針となった。

■40過ぎのデビュー

幼児期に父親のひざの上で島唄を聴いて育った氏が、島唄界にデビューしたのは、40歳を過ぎてからだった。(セントラル楽器主催:実況録音奄美民謡大会)
それまでの人生の大半は、島唄とは無関係の舟大工一筋であったといっていい。それが、ある日突然、島唄に目覚め、そして、1年くらいの間に三味線伴奏までマスターしてしまった。
つまり、「音の記憶が里帰り」した、チョー典型的な例だ。

■島唄のタネまき

その実体験に基づいて彼は、しばしば市内の保育所を訪れ、子供たちと行きゅんにゃ加那などのポピュラーな島唄を一緒に唄う活動を続けている。
これは、氏独特の、島唄人口を増やすための種まきだ。

何度か拝見した事があるが、園庭で坪山さんと一緒に唄う子、かたわらの遊具で遊んでいる子、園庭を所狭しと走り回っている子とさまざまだ。

一見、まとまりがないように見える光景だが、みんな、いざとなったらちゃんと歌える。
チヂンを上手に叩く子もいて、着実に島唄の輪は広がってきている。

■島唄普及の適齢期

「私がやっとマスターした島唄を、彼らは数回一緒に歌っただけで、すぐに覚えてしまうんです」
と、子供たちの吸収力に舌を巻いていらっしゃった。

幼い頃に、この脅威の吸収力でもって心に蓄積された「音の記憶」は、体内の時限装置が作動して、ある日突然に、島唄大好きモードに切り替わってしまうのだろう。
島唄普及は絶対に、幼児期のスタートがベストである。

■唄者の養成所

数十年後、その保育所の子たちが四十歳になったら、いっぺんに唄者として何十人も出現するのではないだろうか。
そして、みんなで、勇壮にワイド節を合唱したりする。
などと、ちょっと夢見る今日この頃である。

<奄美島唄コラム | 「唄袋のシマから」秘話>