貴島康男の世界

■少年時代

くりくり頭の中学生の坊やだった。
その可愛らしさから、幼い唄声を想像していた。
それ以上とも、それ以下とも思わなかった。

しかし、彼が歌い始めると会場は「ほうっ」とため息が漏れた。
群島内最大規模の島唄イベント・奄美民謡大賞での出来事。
唄にもまして彼のその美声!
この瞬間、奄美は島唄の至宝を手に入れたのだった。

唄の登竜門、奄美民謡大賞という大会で、制服もダブダブの中学1年生がいきなり少年の部優秀賞だ!

翌年は、最年少・新人賞を受賞した。
これは、今も記録となっている。

3年生の時は、新人賞以上、大賞未満という事で「特別賞」となった。
驚異的な少年であった。
順風満帆の貴島康男の島唄人生・・・。

身体の成長にともなって、彼は声が出なくなった。島唄は裏声無しには歌えない。
「島唄を歌うとキミの裏声は戻ってこないかもしれない、当分、唄は止めなさい」
変声期・唄のない貴島康男・・・
彼が一番つらかった時期だ。

その前年には、‘91年坪山豊、皆吉恵理子の協力を得て「貴島康男14歳」というカセットテープを制作していた。
タイミングが少しずれていたら幻のテープとなっていただろう。

■奄美の子

唄を忘れたカナリヤのような毎日。
その失意の時期、彼とその家族は鹿児島移転をする。

奄美を出て、生きている気がしなかったという。
人情も文化も今までと違いすぎたのだ。
自分の居場所を彼は悟ったという。
オレの在所(ありか)は、あそこなのだ・・・と。
自分が自分らしく生きていける場所は奄美なのだ。

■師との再会

島唄の師・坪山豊は片時も康男の事を忘れなかった。
彼の才能を惜しむゆえだ。
彼は、異郷で手に職をつけて奄美に帰ってきた。
ピアスに茶髪、New康男の登場だ。

「おじちゃん、ボクまた島唄をやりたい」
坪山は言った。
「そうか、また、一緒に歌おう」

坪山は、自分の事を先生と呼ばせない人だった。
「島唄を歌う人は、みんな仲間だから、先生、生徒という上下の関係を作っちゃいけない」

「一緒に歌う」それが、坪山の教授法。
人の数だけ(個性的な)島唄はあるから基本が出来たら自分風に工夫して歌ってゆけばいいという考え方なのだ。

先生と呼んだ時だけ叱られるというなんとも奇妙な練習風景!
だから、康男は、「おじちゃん」と愛と尊敬をこめてそう呼んでいる。

変声期の頃、シマと島唄から遠ざかっていた貴島康男。
15の歳からあしかけ9年、島唄の康男は、その姿をなかなか現わそうとしなかった。
「みんな、もう自分の事なんか忘れてしまっているに違いない。」
過去に脚光を浴びた事があるがゆえの恐怖!

「康男のCDを作ったらどうだろう?」
坪山氏からご提案をいただいた。
久し振りに彼の美声を聴くことができるか?

※「あやはぶらの唄」
綾蝶(あやはぶら)
色とりどりの模様の入った蝶。
奄美では、人の魂(まぶり)の化身とも言われている。

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