村田実夫の世界 その2
村田実夫メモリアルコンサート(平成13年8月26日開催)へ向けて故人の知己を訪ねた。
「村田さんってどんな方だったのですか?」
久永(旧姓 沖島、※名曲「加計呂麻慕情」などの作曲者)美智子さんへ聞いた。
■村田実夫氏との出会い
昭和36年、名瀬市で「遺族会館」建設の資金を捻出するため、各地を演奏巡業するという提案があり、村田実夫氏は、演奏者のリーダーとなる。
(※遺族会館は、戦災者のための集会場的役割を果たした建物で、現存しない。)
「沖島美智子氏の歌がメンバー構成上必要だから、預からせて欲しい」という要請に、両親(特に父親)が、「嫁入り前の娘を何ヶ月も地方廻りなどとんでもない事だ」と、猛反対をしたが、村田実夫、山田米三の両氏は、遺族会館の建設の意義を強く唱え続けた。
両親への説得の甲斐あって、彼女のチャリティコンサートへの参加が決定した。
メンバーは、村田実夫夫妻とギタリスト2人(若宮、鹿島氏)、沖島美智子嬢の5人構成になった。
演奏は、同年の5月から10月までの半年間、奄美諸島全域におよんだ。
名瀬市の文化会館、中央会館を皮切りに、大島本島、喜界、徳之島、永良部、与論などの各地をくまなく巡業した。
まだまだ娯楽の少ない時期、どの会場も盛況で、お客の熱い声援や拍手がメンバーの励みとなった演奏には、当然、演目はあるのだが、実夫氏は、当日の会場の客層を見て年配の人が多い時は島唄を多めにしたり、若い人が多い時は、ベサメムーチョなどを歌ったり、ずいぶん、細かい配慮をしていた。
三味線を使ったり、巨体で大きなアコーディオンを操る様は、見応えがあった。
特に、「今の風雲節」は、得意中の得意で、三味線でもアコーディオンでもそれぞれの楽器で異なる演奏をお客に聴かせた。
アロハシャツのステージ衣装を着た実夫氏たちは、大変格好良かった。
妻の東 小百合(芸名)さんは、日舞、琉舞、洋舞、股旅ものと、ジャンルは変わっても、踊りは常に一級品だった。
会場の客たちは、しばし、現実を忘れて見、聴き入っていた。
いつ、どこにいても、たとえステージでも、変わらず島口を話し、その飾らない人柄は、島の音楽家と言うのにふさわしかった。
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■村田実夫氏を偲ぶ
「はゲー なまド なあめチ いきゅンとろ ありョたんバ……」
(訳)おおっ、今、貴方の前に行くところだったんだ。
右手を高くふりながら足早に歩み寄ってきたのは、村田実夫君であった。
「曲ぬでけりョたンちョ、きしくれンしょしんニ……」
(訳)曲が出来たんだ、聞いて下さい。
ところは名瀬市・大正寺まえの十字路。
ときは昭和23年8月の某日。
南海日日新聞主催の第2回北部南西諸島音楽コンクールの開幕を目のまえに、新民謡「農村小唄」の作曲が急がれていた。
―ちょうどよかった。大正寺には当時、市内には数少ないピアノが置いてあった。
村田君は同寺幼稚園の第1回生だとかで寺とはこころおきない間柄、村田君の手がさっそくピアノの鍵盤のうえを走りだし、そしてくりかえされた。
「きゃしだりょン……?」
(訳)どうでしょうか?
村田君の声にわたくしは、
「うン、……いける…いける…」
とうなるばかりだったが、あのとき
「これし、ゐッちャリョンにャ……」
(訳)これで、良いですか?
と、体じゅうでダメ押しをし、そして微笑んだ村田君の顔をわたくしは今もありありと思い浮かべる。
※昭和48年9月29日「村田実夫追悼演奏会」追悼の辞より
村山家国(南海日日新聞社社長)