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就職。そして退職

 この年、大島中学校を卒業した私は、千葉県の日立航空へ入社しました。奄美大島から船に揺られ、鹿児島から汽車に揺られ、何日もかけてやっと到着しました。
 日立航空の現地に来てみると、工場はこれから建てるというありさまで、採用された連中は、毎日、そのための材木運びをさせられました。
 
 私が造りたいのは、工場ではなく飛行機なのです。はっきり言って、これは建設労働者の仕事ですので、まったく就職した甲斐がありませんでした。
 
 東京の徳三和益(とくみわえき)叔父に愚痴をこぼしたら、
「そんな所に勤めても時間の無駄だから辞めてしまえ。」と言われました。
それまでの私の人生は辛抱する事ばかりで、そのような発想がありませんでした。
「それもそうだ。」と結論を下し、早々に退職しました。
 その時叔父から教わったこの【見切る】ということは私の人生に大いに生かされることになりました。
 
 その後、叔父の家に下宿し、近所の松谷製作所へ就職して機関銃の部品造りをしていました。

伯父・徳三宝

 東京での暮らしの間に、母の兄、徳三宝(とくさんぽう)伯父に挨拶をしなくてはと、江戸川の平井にあった自宅を訪問しました。
 
 しかし、柔道の鬼と異名をとった徳三宝という人は、まったく無口な人で、初対面の甥に対して、
「お母さんは元気か?」
と言ったきり、あとは何も話してくれませんでしたし、こちらも、
「はい、元気です。」
と言ったあとは話題が見つからず、なんとも気まずい時間を過ごしました。
 
 翌年3月10日の東京大空襲で伯父夫婦は亡くなりました。目撃した人の話では、焼夷弾による猛火の中を、伯父は、多くの人の救出に奮闘しそのまま逝ってしまったとのことでした。

 後日、柔道の話題になると嬉しそうに話をする人だと人づてに聞きましたが、
「お母さんは元気か?」
これが、伯父が私にかけてくれた唯一の言葉になりました。

《徳三宝のプロフィール》
本名 徳 三宝(とく みたか)通称(とく さんぽう)
 明治20年、鹿児島県大島郡天城町兼久で徳三和豊・マツの長男として生まれる。
 身長5尺6寸弱(176センチ)、体重25貫(94キロ弱)は当時としては巨漢。
徳之島から鹿児島二中へ進学、その柔道の強さは九州中に知れ渡った。その後、星雲の志を抱き状況、東京高等師範の体育科に入り柔道の技を磨く。大正時代、講道館四天王と称されたうちのひとり。講道館柔道9段 鹿児島県が生んだ柔道界の巨人として強度に名を残す。
 昭和20年3月10日没 59歳

軍隊の落ちこぼれ

 戦局も悪化の一途をたどり、10月、ついに私にも召集がかかりました。
「お国のために頑張っていらっしゃい。」
と、祝って送り出されましたが、平素、粗食に慣れていたせいか、急にまっ白いご飯などいただいたので体がうけつけず、腹をこわしてしまいました。
 
 10月に熊本の西部22部隊へ入隊しましたが、軍隊では1日目はお客さん扱いで、新兵は、ご飯を腹を腹いっぱいに食べさせてもらえます。
 腹はこわしていても、当時は慢性の空腹状態ですからそれでもガツガツ食べまくり、案の定、腹をくだして、ますますやせ細ってしまいました。その時、上官に
「そんな、きゃしゃな体では、お国のためにならないから、故郷へ戻って体力をつけて出直して来い!」
と言われ、母の疎開先だった鹿児島県の大口へ行きました。

※この時、軍隊では娑婆っ気を抜くという事で持参していた思い出の写真などをすべて焼き捨てられてしまいました。今思うと大変残念なことです。