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誕生

 私の生まれた徳之島は、奄美大島本島の南方にあり、鹿児島市から、南南西468km洋上に浮かぶ常夏の島です。

 私は亀津村(現・徳之島町亀津)で父・指宿良英(いぶすきよしえい)、母・みちの5男として大正14年2月13日、産声をあげました。
わが家はすでに祖母と両親、兄4名に姉2名の大所帯で、私は10番目の家族となりました。

 当時、父は亀津中区のほぼ中央で「かねよ商店」という衣料雑貨店を構えていました。それは現在の東薬局のあたりになります。
今のこの中央通は繁華街のひとつとして賑わっています。

鹿児島行き

 この頃、亀津では子供が学齢に達すると家族ぐるみ本土に引き上げる光景が、よく見られたとのことでした。鹿児島市内の下宿代が月4円、学費が50銭という当時の相場では、その方が経済的だったのでしょう。
 
 私の両親も、子供の教育のことを考えて、大正14年の8月(私が生後半年くらいの頃)に鹿児島へ移り住み、鹿児島市内の高麗町の本通りに三好屋という呉服用品店をひらきました。

 その後、鹿児島では、私の4人の弟たちが生まれました。幼かった私や弟たちに故郷というものを植え付けてくれたのは、今思うと祖母であったに違いありません。

 祖母・指宿メキヨテの晩年は、故郷・徳之島を離れて鹿児島や名瀬での暮らしでした。永年暮らした故郷(しま)に対する望郷の念からなのでしょう、方言しか話せない祖母は、よく、故郷の「亀津朝花」という※島唄を歌っていました。昭和34年に93歳で亡くなるまで、これは祖母の異郷での生活に欠かせないものでした。

 後に、この祖母の唄を再現するために私は島唄の録音・販売を手がけるようになります。採算の取れない全くの道楽的なスタートとなりましたが、それはご述します。

※島唄=奄美では集落のことを「シマ」、そこで歌われている民謡を「シマ唄」と呼びます。