【奄美の美空ひばり】と言われた 上村藤枝(かんむらふじえ)さんは、笠利町崎原(さきばる)のご出身で奄美群島の日本復帰前に、前述の南政五郎さんと共に精力的に島唄を唄って群島内を廻り、奄美で彼女を知らぬものは無いというほどの唄者でした。
続きは下記書籍「大人青年」よりどうぞ
【大人青年】
朝花(あさばな)/俊良主(しゅんりょうしゅ)
くるだんど/ゆんみやんみ
花染め/あまぐるみ/請けくま慢女(まんじょ)
嘉徳(かどく)なべ加那
太陽ぬ落て名残れ(てだぬうてなぐれ)
しゅんかね/やちゃ坊/らんかん橋/こうき
芦花部(あしけぶ)一番
上がれ日ぬはる加那/今ぬ風雲/六調
(全17曲)
田辺経営の指導
それまで、経営の仕方も分からず、また、分ろうという意思もなく、長い間、限りなく道楽に近い経営を行っていた私は、昭和39年、奄美産業株式会社の中村源一郎(なかむらげんいちろう)社長の情熱溢れる計画経営のお話を伺い、心の革命を起こし、私なりに実行してまいりました。
それをさらに極めようと、12月から大阪の経営コンサルタント・株式会社田辺経営の指導を受けはじめました。
日本の商習慣の中で何百年も磨き抜かれた法則というものがあります。その法則にのっとって動かないと、自己流でいくら頑張ってもダメなのです。それを、大阪商人の象徴として、田辺経営に託しました。
この時の指導で、【期限を決め、それまでに、自ら数値化した目標(売り上げ、経常利益、経営資本、自己資本、社員一人当たりの平均年収など)を達成する】と誓いました。
旧態依然とした発想や行動の延長線上には飛躍的な発展はありません。また、この時の目標は、簡単に達成できるようなものではありませんでした。全社員が生まれ変わって一致団結し、全力を傾注出来る様な魅力ある職場を作ってゆかねばなりません。
そういう訳で、目標達成のため、セントラル楽器のバックボーンを作り上げました。
【魅力ある職場】の第1の条件を使命観が明確になっている事とし、次の【使命観】と【五つの誓い】を作り上げました。
【使命観】
音の文化で心をひらくセントラル楽器
【五つの誓い】
一つ
私たちは郷土の音の文化を発掘し発展させます。
(これは、奄美島唄や奄美新民謡の普及や新人発掘を指します)
二つ
私たちは日本および世界の音の文化を紹介し普及させます。
(当時、邦楽・洋楽のレコードを扱っていました)
三つ
私たちは音を作る楽器のベストを追及し、開発普及させます。
(良質な楽器、技術のアフターサービス、一歩進んでメーカーへ楽器開発の提案まで行う)
四つ
私たちは音の文化を鑑賞し、創造する素地の開拓に努めます。
(ヤマハ音楽教室の生徒の指導育成、民謡大会、各種コンサート)
五つ
私たちは、音の文化のT・P・Oに応じたノウハウを提供します。
(お客様に対し、音楽のコンサルタントたれ)
もともと、数値化された目標や、設定した目標を達成することの好きであった私は、田辺経営と共に展開するこれらの経営にのめり込んでゆきました。
プラン(計画)、ドゥ(実行)、チェック(反省)を際限なく繰り返し、のどかな奄美には似つかわしくないほど、すべてに徹底した期間でした。
また、スリーデーと言って、全社員が販売業務に専念する3日間を定期的に設定して実施することで、ピアノ、エレクトーン、ステレオなどのヤマハ製品が驚異的な売り上げをあげた時期でした。
昭和44年から榊原実義(さかきばらさねよし)君が加わり、田辺プランを築き上げる上でなくてはならない営業の戦力として活躍してくれました。彼はその誠実な人柄を生かし、現在は我が社で経理マンとして事務を執っています。この年に入社した浜崎浩昭(はまさきひろあき)君は、最初、経理担当でしたが、営業の方が面白そうだと部門を変えた積極的な男でした。なかなかのムードメーカーで彼の周りはいつも笑顔が絶えませんでした。