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谷本自動車

 名瀬に戻ってきて5月までの約7ヶ月間、私は谷本自動車に勤め、月給300円で黄バスと呼ばれていた市内バスや、笠利・古仁屋行きの愛國バス(米軍払い下げ車両)や、トラックの運転手をやっていました。車掌はすべて男性でした。
 
 この当時、瀬戸内町の古仁屋までは、片道80kmの距離があり、延々8時間もかけて行き来していたのです。それに比べ、名瀬から古仁屋まで慶徳(けいとく)丸という(定員50人位)木造船では、2時間半しかかからないという状態で、この陸路の難儀さは長い間続きました。今なら、この区間は1時間もかからないでしょう。

ハブに咬まれた!

 その後、4月から8月まで針金細工でブローチを作り、英一兄に1個4円で卸したり、5円で小売をしたりしていましたが、労多くして益の少ないこの仕事に内心うんざりしていた時期でした。
ハブに咬まれたのは、この間の7月31日のことでした。

 古田町の奄美高等女学校(現・奄美高校)の教員住宅に住んでいた次女の信子姉夫婦が、夏休みで亀津に帰省するからと留守番役を仰せつかりました。

 事も無く日が過ぎてゆきましたが、ある明け方、にわか雨がうち込んできたので、当時貴重品だった縁側のミシンを濡らさぬよう雨戸に手をかけた時のことでした。
 一瞬、裸電線に触れて感電したかのような衝撃が額に走りました。戸袋に収納されていた戸にぶらさがっていた物は、なんと!毒蛇・ハブだったのです!
 
 咬まれた箇所が頭部でしたから命にかかわると思い、急いで窪田病院(現・末広町にあった)へ駆け込みましたが、
「頭は毒のまわりが遅いから落ち着きなさい。」
意に反して、窪田先生の対応はのんびりとしたものでした。
 
 傷口を切開し、注射をうってもらいましたが、この治療は命の保証であって、痛みや症状をやわらげる類のものではありませんでした。
 
 この時の症状を具体的に書くと、
【顔面は腫れあがり、上下のまぶたは、指を使わないと開けられない状態。しかも、8~10時間後にはハブの毒が回って上半身まで腫れてしまい、全身が火であぶられているような痛さでした。意外に傷口は大したことはありませんでしたが・・・。】
といったものでした。

 病院の隣にあった長女・兼子姉の家に数日厄介になりました。ハブに咬まれる中で一番軽度だといわれる頭部でさえこのような有様なのです。
 今では、めったに街中でハブにお目にかかることはないでしょうが、奄美ならではの体験談として記しておきましょう。

行商す

 9月から次女・信子姉の夫・大河平才秀(おこひらさいひで)兄の弟の清瀬才為(きよせとしなり)君と2人、石鹸やタバコの行商をはじめました。
 地元で使われていたコンニャクのように柔らかいものと違い、アメリカ製のラックスやアルボスといった石鹸は品質が良く、飛ぶように売れました。
 お得意さんの数が増えてくると売上げもどんどん上がりました。効率を考えて自転車を使うようになり、商売も楽しくなってきました。
 この頃の奄美は、これらの日用雑貨が慢性的に不足していたのです。

 《追記》
 才為君と私は年も近く(一歳違い)、名瀬や東京の松谷製作所時代も寝食を共にした仲で兄弟のようなものでした。
 彼は小柄ながらどこにあっても物怖じせず、堂々と大きな声で徳之島の言葉を話していました。
 そのため、よく近所の人から彼はどこの国の人か?と尋ねられたものです。

小さな店舗

 12月には屋仁川通り(金久町)の、現・クラブ・ママの角から2件目にあった川畑という方のお住まいを間借りして、間口2.7mの店舗を構えました。
 年末には商工協同組合の宴会が柳町の有楽亭であり、いっぱしの商人の仲間入りが出来たと、喜んで参加しました。
 2次会は、年齢の近い染川永有(そめかわえいゆう)さんや津畑守人(つばたもりひと)さんと金久町の櫻亭で大いに楽しみました。
 この頃、コツコツ貯めた資金が4万円になり、もっと広い店舗での商売を考え始めていました。