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三兄弟、沖縄で商売す

 名瀬ではあまり仕事が無かったので七男・健七と2人で沖縄へ行こうと計画しました。資金が不足していましたので、三男・英一兄に、10万円ずつ貸して欲しいと頼んだところ、
「10万円とは、とんでもないっ!お前たちには多すぎる金額だ。5万円にしろ。」
と値切られてしまいました。

 しょうがなく5万円ずつ借りて那覇へと向かいました。ここでは健七の同級生の柏木さんという方の下宿屋を拠点にして行商をしましたが、キチンとした店舗を持つと持たないとでは売上げがまったく違ってきます。2ヵ月かけて物件を探し那覇市内の壺屋に間口1.8m、奥行き3.6mの場所を借りました。その残金で
「健七、何でもいいから、とにかく売れそうなものを仕入れておいで。」
と送り出したところ、彼は造花を持ち帰ってきました。

 造花の売り方と売り先は、次のようなものでした。
 まず、原価3円の花を、4本セットにして100円の値を付けました。これを、米兵連中がハニーと呼んでいた沖縄の女性たちの気を惹こうとプレゼント用に買ってくれました。意外な事に、花束は飛ぶように売れたのです。沖縄での商売は思いのほか順調でした。

 そのことがやがて、名瀬の英一兄の耳にも入りました。兄は、
「自分も出資するから仲間に入れてくれ。」
と申し出ました。しかし、健七は大反対です。
「英一兄よ、金を貸すのを渋って希望額の半分しか出してくれなかったくせに、仕事が順調にいきだした今頃のこのこやって来て、俺たち弟を相手に大将づらしようなんて、それはあまりにもムシが良すぎるッ!」
 
 そう言った健七の気持ちは良く判ります。しかし、なぜか、対立する2人の間に立つ者は、中庸の精神を持たざるをえないもので、
「なあ、健七。そうは言っても俺たちに軍資金の5万円を貸してくれたのはこの英一兄だぞ。」
そう言って私がなだめると、言いたいだけ言って少しは気持ちが納まってきたのか、健七もしぶしぶ承知してくれました。
「よしよし、その代わり、これからはいくらでもお前たちに出資してやるからなァ。」
英一兄も現金なものです。

 ともあれ、こうして兄も沖縄にやって来て、那覇で兄弟3人、共同事業を開始しました。
この沖縄での商売も軌道に乗り始め、やがて
「いっそのこと、ここに移り住もうか。」
などと、思いはじめていました

さらば!沖縄

 私は、この年の5月18日に名瀬で結婚し、翌日には那覇へ出発するというあわただしさで、妻の幸江は、まるで名瀬の店を無給で店番する女店員のようなものでした。

 今思うとマンガのような沖縄での商売でした。ボール紙製の靴を50円で仕入れて500円で売ったり、粗悪な懐中電灯を扱ったりもしました。雨が降ったら、靴を買ったお客が文句を言いにやって来ます。彼の足元を見ると、靴は元のボール紙に戻りかけていました。また、買ったばかりの懐中電灯が点かなくなったとお客が怒鳴り込んで来たりしましたが、その応対は、いつも健七でした。
 
 那覇の泊港に船が入ってくると仕入れ係の健七は、
「その船、買ったっ!」
船の積荷を丸ごと買い占め、それをトラックで壺屋の店舗まで運んできました。日用雑貨なら何でも扱いました。このようにスケール大きく商売を行い、私たち兄弟の店はいつも活気付いていました。

 しかし、6月に朝鮮動乱が勃発し、そのため米軍基地のある沖縄に原爆が投下される可能性があるといううわさがたちはじめました。沖縄には活気があり、商売のほうも順調でしたので、未練がありましたが、すべては、命あってのものだねです。原爆投下の可能性は低いにしても、火のないところに煙は立たないと思いました。

 それで、奄美に戻りたいと兄弟に相談し、店の共同経営から退きました。それまでの収益を分配してもらい、名瀬へ帰りました。それからしばらくして、英一兄と健七も、1人抜けたら寂しくなったからと奄美へ引き揚げてきたのでした。

《追記》
 当時は若さと勢いだけで突っ走っていましたが、このような商売は長続きするものではありませんし、させてはいけません。原爆投下?というきっかけがあったおかげで店仕舞いすることが出来たと思っています。でも、当時は粗悪品を売買することを悪いなどと思う人もいなかったのです。

密航失敗!

 たぶん8月くらいのことだったのではないかと思います。税務署に勤務していた泉ヒロタカ兄、染川永有(そめかわえいゆう)さん、堀口の弟さん、健七と私の5名で鹿児島へ密航船を走らせました。この時の積荷は大量の黒糖でした。

 口之島までは、米軍支配エリアなので問題ありません。そこから先が日本の領土なので、越えると密航になってしまうのです。そのいけないラインを越えて鹿児島へ向かいました。錦江湾内を航行中は、警察に見つからないようにと、船倉に入ってじっとしていましたが、暑くてたまりませんでした。
「いいか、船を降りたら解散する。集合場所は山形屋(やまかたや)前だ。」
下船前にいろいろ打ち合わせをしましたが、それらはすべて無意味なものになってしまいました。なぜなら、船着場には密輸品の取り締まりの警官たちが待ち構えていたからです。沖縄で稼いだ金で買い込んだ黒砂糖の山が一瞬で消えてしまって、目の前が真っ暗になってしまいました。

 その頃の鹿児島駅近くの易居町(やすいちょう)は、闇市でにぎわっていました。そこにあった飲み屋で今後の事を密航グループの全員で話し合っていたら、40半ばの店のおかみさんが、
「私は、密航船の取り締まりの担当を知っているから、10日くらい経ってほとぼりが冷めた頃にあなた方の荷物を返してくれるように頼んであげる。しばらく、ここに泊まるといいよ。お代は、品物を換金して払ってくれればいい。」
と言ってくれました。

 お言葉に甘えて逗留するものの、いっこうに黒砂糖が戻ってくる気配がありません。密航のメンバーは、待つと決めていましたが、しびれを切らしてしまった私は、自転車屋時代の友人・薩摩屋レコードの福島さんを訪ねました。

薩摩屋レコード

 「福島さん、私にレコードを仕入れさせてください。」
彼は、私の申し出を快く引き受けてくださいました。
 こうして、当時流行していた曲のレコードを10万円分仕入れて奄美へ戻りました。
 蓄音機もそれほど普及していない時代でしたが、この頃、名瀬はダンスホールが花盛りで、今の奄美大島信用金庫本店近くの桜ダンスホールやよねやま文具近辺にあった中村ダンスホールなどでレコードを買ってもらい、それが10万B円になりました。(奄美の貨幣はB円と呼ばれていて、日本本土の円の3倍の価値がありました。)

 この売上げで私は息を吹き返すことが出来ました。
 この時の恩人、薩摩屋レコードの福島重成さんは、現在、鹿児島県税理士会の会長さんを務めていらっしゃいます。

《追記》
健七たちは50日も黒糖の返却を待っていましたが、無しのつぶてで、結局、彼は路銀を使い果たしてしまい、船の飯炊きのアルバイトをして、ようやく奄美へ戻って来ました。今となっては笑い話ですが、手元に残っていたのはコンブ一束という悲惨さでした。

義弟・横山新二のこと

 家内の弟【長男・横山新二(よこやましんじ)】は、物怖じしない性格で、長幼の序という視点から見ると、少々生意気なくらいの威勢の良い青年でした。まだ17歳でしたが、沖縄では元気良く商品の叩き売りや呼び込みなどをしてくれました。また、鹿児島まで出かけて薩摩屋レコードさんへの返済や商品の買い付けなども充分にこなして、セントラル楽器店の番頭役を務めました。

 後に彼は福岡の航空自衛隊へ入隊しますが、その自衛官時代に福岡県行橋(ゆくはし)市の食堂の娘さん・大谷芳子(おおたによしこ)さんに一目惚れしてしまいました。私は、新二から
「彼女を嫁にしたいが、手助けしてくれ!」
と、連絡をもらい行橋市へ出かけました。そして、彼と連れ立って彼女の実家へと向かいましたが、玄関に立った時にはよほどプレッシャーが大きかったのか新二は姿を消してしまいました。
仕方がないので私は1人で彼女のご両親を口説きましたが、借りてきた猫のようなこんな彼を見るのは初めての事でした。話がまとまり、次男・英造兄夫婦が仲人で昭和36年に名瀬で結婚式を挙げました。これで、やっと彼に密航船時代の借りが返せました。