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のどかな創業当時

 私が自転車屋を創業した2月当時の鹿児島市内は、まだ終戦後の焼け野原でした。
 祖母・メキヨテから以前貰った紬の着物を質に入れて作った700円が、この時の創業資金でした。

 そして店舗はというと、長男・良秀(よしひで)兄と友人の広さんという方の家の間にトイをかけて自分1人で作った掘建て小屋でした。(寸法は間口1.8m、奥行き4.5m位の粗末なもの)
 なにしろ素人の作ですから、大雨の降った日には家財一切びしょ濡れになりました。
 その場所は現在の鹿児島市内、山形屋の前になります。
 従業員は、鹿児島県立第二鹿児島中学(現・甲南高校)の2年生だった八男・光宝(みつたか)ただ1人でした。

 まだまだのんびりした時代で、ご近所の薩摩屋レコードから流れていた田端義夫のズンドコ節、帰り船、玄海ブルースなどのメロディの方が、仕事よりも先に脳裏に浮かんでくる、懐かしい思い出です。
 
 余談ですが、ご近所のお世辞にも美男とは言えない水間さんという笠利出身の方が、生活力があったせいか大変な美人を貰ったという事がその界隈のビッグニュースになった、のどかな時代でした。

 当時の鹿児島市内は道路事情が悪く、そのため自転車のタイヤのパンクが多かったので主に修理をやっておりました。
 また、私は、拾ってきた自転車の錆を懸命になって落とし、ペンキを塗って新しいタイヤを付けて新車同様に仕上げ1800円で売っていました。
今風に言うとリサイクル商品です。新品の自転車は、まだ国内では作られていなかったようです。
 お客のいない時は、店の奥で私も古賀政男や田端義夫の曲をギターで爪弾く気楽さで、自転車屋か楽器店か分からないありさまでした。
 秋になり、兄弟たちは全員、奄美へ戻ると決定し、私もそれに従うことにしました。

奄美へ引き揚げる

 その年、奄美への引き揚げを希望した私たち兄弟(長男・良秀兄、七男・健七、八男・光宝)は、10月14日に佐賀県の鳥栖市から汽車で長崎県佐世保市の早岐(はいき)を通り、同市の南風崎(はえのさき)駅近くにあった宿舎に到着しました。
 翌日、荷物検査等があり、船が出港する25日までの退屈な10日間を、皆でトランプなどをやって過ごしました。

 この時の帰還者たちの団長が大熊出身の押川さん、副団長が良秀兄で、25日未明、日本丸という船に乗り込み、南風崎近くの港を出港、長崎経由で10月28日名瀬に到着しました。
 港には三男・英一兄や長女・兼子姉が迎えに来てくれました。その晩は17名の兄弟、親戚の大歓迎で焼酎を飲みながら楽しく過ごしました。
 
 名瀬では短期間ですが、英一兄の雑貨屋を手伝う事からスタートしました。
当時、兄の店は生活用品を扱っていた名瀬の三大雑貨店の一つで、ほかに川畑友一さん、徳山武雄さんなどのお店がありました。