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父の死・母の苦労

 この昭和15年には、11名の子供をもうけたということで国からの表彰が決まり、大いに喜んでいた父・良英(よしえい)でしたが、その表彰式当日の12月9日に体調をくずしたため母・みちが代理で出席しました。
父は、この日容態が急変して、あっけなくこの世を去りました。

 父が亡くなってからの数年間は、長男・良秀兄、次男・英造兄、三男・英一兄も軍役に就いていて、仕送り等出来ない状態でしたので、母が一人で世帯の切り盛りをしていました。
大島中学校(現・鹿児島県立大島高校)の2年生だった私から小学校2年生の9男・良昭まで食べ盛りの男の子5名と姉2名、祖母、それに自分を加えた計9名の生計を立てられず地主の保忠宜(たもつちゅうぎ)さんへの地料の延べ払いや大中の学費の支払いに頭を痛めていたことを昨日の事の様にハッキリと覚えています。朝食のおつゆは、具など全然入っていない「無汁(なーじる)」でした。

 私と6男・清秀は中学生だったので、母の苦労を見かねて新聞配達を始め、学費納入日には、新聞配達所から学校へ直接5円納めてもらいました。後に続く健七(けんしち)も中学校に入ってからは同様に新聞配達をやりました。しかし、これくらいでは家計は楽になりません。
 
 長女・兼子姉は、ミシンがけをして毎晩徹夜同様に働き続けました。姉が寝ているのを私たち弟は見たことがありませんでした。しかし、体力の限界まで来ていたのでしょう。ついに、ある日、睡眠不足から居眠りをして、アイロンでミシン台を焼き焦がしてしまいました。
あの頃、ぼろぼろになりながら頑張ってくれた姉のことを思い出すと、今でも目頭が熱くなります。
 
 また、小学校の新任教師になった次女・信子姉は、わずか18円の給料を生活にあててくれましたが、これも焼け石に水で全く足りず、わが家の家計は貧しさのどん底に喘いでおりました。
この様な実情を見かねて、お金を貸してくださったのが、わが家の真向かいの池田履物屋の池田武常・ヨシご夫妻(瀬戸内町網野子出身)でした。


《追記》
母は、昭和56年12月11日に92歳の生涯を閉じましたが、生前、口癖のように
「隣近所の方々にずいぶん助けられてきたけれど、池田さんご夫妻にはいくらお礼を言っても言い尽くせないほどお世話になった。」
と申しておりました。
 母の13回忌(平成5年10月5日)に、池田さんのご長男の利ちゃん夫妻、長女の幸ちゃんをお迎えしての法事が出来ました。
母、みちもきっと、草葉の陰で心から微笑んでくれたことでしょう。