模型飛行機を扱い始めましたが、こういう趣味の世界には国境がないらしく、軍政府の米兵がよく出入りして、エンジンを調達してくれました。完成した飛行機の099や047といった国産のエンジンを作動させてみると、小型のものにもかかわらず、マフラーが無いため大きな音になり、お隣の中央会館(映画館)の東時則(あずまときのり)さんから、
「映画のトーキーの声が聞こえないじゃないかっ!」
と、しょっちゅう、お小言を頂戴しました。
この時の模型飛行機はユーコン機という型で、操縦者が中央にいてピアノ線で繋いだ飛行機を円軌道に乗せながら操縦するのです。手元のハンドルで昇降舵をコントロールして急上昇や急降下、離着陸、果ては宙返りまでを行う本格的なものでした。エンジン音がまるで本物の様にすさまじく迫力があり、またコルセアやP-51ムスタングなど米軍の名機を模ったものであったため、行く先々で、黒山の人だかりでした。
奄美高等女学校の校庭で飛ばしたときは、里村校長先生に
「飛行許可はしましたが、この爆音はあまりにも大きすぎます。」
と、クレームを付けられました。狭い名瀬の街中では騒音として歓迎されないケースが増えてきました。
それでも、まだまだ郡部では大歓迎で、昭和34年には喜界(きかい)空港オープンに花を添えるため、空港でエンジン機を飛ばして町民のみなさんに喜んでいただきました。また、大和村の大和小中学校の校庭や、徳之島町亀津(かめつ)の大瀬川の河原等でも飛ばしました。瀬戸内町の古仁屋(こにや)中学校の校庭で行った時はゴム動力の飛行機の滞空時間の一番長かった子供さんにエンジンを一台ご褒美にあげたこともありました。娯楽の乏しかった時代ということもあり、どこに行っても、皆さん歓迎してくださいました。
その頃は、商売か遊びか分からないくらい自分自身が飛行機に夢中になっていました。遊び仲間に御殿浜で木材店をやっていた木工細工を器用にこなす平良樹(たいらよしき)さんや税務署の栄さん、たから屋隣の安田金物店の店主で昭和2年生の安田直照(やすだなおてる)さん(平成6年10月68歳で亡)がいました。最初は物珍しそうに眺めていた人たちが、単調な飛行に飽き始めると、ここは思い切って急上昇や急降下などで興味をつなぎとめ、仕上げはウケ狙いで宙返りから地面に激突させて拍手喝さい。そのかわり、家に帰ると後悔と手間のかかる修理が待っていましたが・・・。
奄美群島日本復帰す
体の不調を引きずったまま、また年が明けました。相変わらず血痰に悩まされ、そんな最中、長女・兼子姉の夫・中原四(あずま)兄が突然、心臓麻痺で亡くなり、人の命のはかなさに唖然としました。島唄の好きな社交的な義兄でした。
そんな中、明るい話題は、天文館通り(現・奄美本通り)に昨年11月から着工していた店舗が完成したことと、次男が生まれたことでした。この店構えは、当時としてはなかなかモダンなものでした。
名瀬市民は、奄美群島日本復帰へ向けて盛り上がってきた時期で、気運は島外へと広がっていましたから、病気がちだった私は、カヤの外のような気分でした。
12月25日、奄美は日本復帰しました。