インデックス

村山家國さん

 【新民謡】というと、南海日日新聞社を創立された村山家國(いえくに)社長を思い出さない訳にはいきません。村山さんが復帰前の昭和22年に作詞なさった【島かげ】や島の言葉で表現した【夜明け舟】は、当社でもレコード化させていただきました。

 特に【島かげ】は、祖国から切り離された群民の心を強く打つ名曲でした。これが呼び水となって、昭和28年の日本復帰までの8年間に多くの歌が生まれてきました。

 彼の南海日日新聞社が主催する【北部南西諸島音楽コンクール】で、群民を力づける明るい歌の一般公募を行ったりしたのですが、ここから【農村小唄】、また、時期を同じくして、泉芳朗さんの主宰する【自由】という機関紙で【新北風(みいにし)吹けば】、【名瀬セレナーデ】、【そてつぬ実(なり)】などの歌が生まれてきました。

 物は無かったけれど奄美のルネッサンスと言われたあの時代から始まって、
「指宿さん、これこれの催しに協力してくれないか。」
と誘われ、歌謡ショーや音楽会、島唄大会、新民謡募集など充実した仕事を一緒にさせて頂いた事も懐かしい思い出です。

 彼の歌詞を昭和38年に買い取ったのですが、彼はその作詞料を受け取ると即刻、しかも全額を【島育ち記念碑建立】のために寄付されました。この一連の行動は、彼が私心を持たない、まったくの文化人なのだと実感させてくれました。同時期の春日八郎ショーや田端義夫ショーは島民に圧倒的な支持を受けたイベントでしたが、村山さんの南海日日新聞社はこの時も、収益金はすべて社会還元を行い、報道機関は公器なのだということを改めて示してくれました。

 当時、私の店は新聞の広告費にしても優遇して頂いていました。その理由は
「元来、文化事業とは儲からないものだ。しかし、この火は絶対に絶やしてはいけないから、その尖兵であるセントラル楽器店の広告代は特別に割引料金にする。」
というもので、当時の社員さん方に折に触れておっしゃっていました。
「文化事業とは儲からないものだが、絶対に絶やしてはいけない。」
彼の期待にどれだけ応える事が出来たか?それを思うと、今も身が引き締まります。

《村山家國氏プロフィール》
大正2年7月1日、大島郡大和村津名久に生まれる。
昭和21年南海日日新聞社を創設。
軍政府統治下の奄美で屈することなく紙面にて、独自の報道と世論を喚起した硬骨漢。奄美の日本復帰運動実現のための世論形成、陳情行動などを行っている。
昭和50年2月2日病没 享年61歳
同年3月14日正六位・勲四等・瑞宝章

徳山商店と島唄レコード

 この年、名瀬市内の徳山商店の徳山武雄さんがマーキュリーレコードで13種類、1万3千枚の島唄レコードを製作しました。価格は、1枚100B円でした。
熱心にレコードを聴いていたお客さんたちが、レコードの値段を聞いたとたん、方言で
「ハゲー、100円ねー。私(ワン)ちば10円べぇりチ思(ウ)もたー。」
訳(エーッ、100円か。私は10円くらいと思った!)
と言って帰りだす始末で、店頭の黒山の人だかりの割には、なかなか売れなかったそうです。徳山商店の奥さんは、
「最初っから、『蓄音機も普及していないのにそんなレコードなんか作るな。』っていったのに、案の定こうなってしまった!」
と、こぼしていらっしゃいました。
 あまり売れないので、
「指宿(いぶすき)さん、委託でいいからうちのレコードを引き取ってくれないか。」
と徳山さんからお話があり、全部、セントラル楽器店で販売する事になりました。

 当時のレコードはSP盤といって落としたら割れてしまうようなもろいものでした。売れずに、しかも日の目を見る前に割れてゆく島唄レコードの末路は悲惨なものでした。
 内容的には、戦後初のレコーディングをした島唄の名盤で、唄は上村藤枝(かんむらふじえ)さん、三味線・囃子は南政五郎(みなみまさごろう)さんが行ったものです。唄のテンポも軽快で、現在のじっくり歌っている島唄に比べると、なかなか興味深いものがあります。
これは、平成になってレコードの残っていた20曲を復刻しました。
この年の9月に長男が誕生しました。

島唄復刻盤カセットテープ収録曲】
朝花(あさばな)/長朝花(ながあさばな)/やちゃ坊/しゅんかね
俊良主(しゅんりょうしゅ)/黒だんど/芦花部(あしけぶ)一番
上がれ世(ゆ)ぬはる加那/糸くり/今ぬ風雲
儀志直(ぎしなお)/うらとみ/かんつめ/こうき
ヨイスラ/花染め/雨ぐるみ/らんかん橋
請けくま慢女(まんじょ)/嘉徳(かどく)なべ加那(全20曲)