三界稔(みかいみのる)先生は、昭和33、34年頃に、愛人兼、おかかえ歌手の東郷まつ子さんを連れて、よく大島郡の各地を巡業していました。島口で話す気さくな方で、資金が底をつくと、私の店にもよく遊びがてら無心にいらっしゃいました。
「指宿君、今日は2万円ほど用立ててくれないか。」
【島育ち】【大島小唄】【奄美小唄】【月の白浜】【はたおり娘】などの、たくさんの名曲を作られた方ですが、当時の音楽家としての生活はそれほど楽ではなかったようでした。
ある時、話がはずんだその勢いで三界作品が大好きだった私は、ダメで元々だと思い切ってこう言いました。
「三界先生、先生の曲を私に譲ってはいただけませんか。」
先生はニコニコして
「君が好きなものを何でもあげるよ、契約書に曲名を書きなさい。島育ちはどうかね?」
私は、戦前から島育ちをイヤというほど聴いていましたから、とっさに
「いや、それ以外の曲をみんな私に譲って下さい!」
と言ってしまいました。三界先生は、意外そうな顔をなさいましたが
「君の好きなようにしなさい。」
こうして、この時に三界稔メロディのほとんどすべてを頂いたのでした。その後、これらの曲を昭和35年に録音しましたが、それは後述します。
続きは下記書籍「大人青年」よりどうぞ
【大人青年】
月光仮面、名瀬に出現す!
この頃「月光仮面」という人気漫画がありました。今でいうと、「仮面ライダー」にあたるヒット作品でした。主人公の月光仮面がオートバイにまたがってさっそうと登場し、悪人たちをやっつけるという物語でした。オートバイに乗ったヒーローということでこれを商売に使わない手は無いと思いました。
うちには、西星公(せいこう)君(小浜町にある現・ホンダプリモの社長)というスタイルの良い二枚目の青年がいましたので、彼に白いヘルメットをかぶせ、サングラスをかけさせたら「月光仮面」の出来上がりでした。
星公君の月光仮面は、子供たちには予想以上に好評で、奄美まつりや交通安全のパレードなどで彼が運転するオートバイを後ろからどこまでも追いかけて来るのです。
「いいか、坊やたち、道路を渡るときは右左をよォく見て安全をカクニンするんだゾ。」
「はぁーい!」
校長先生がおっしゃったってこうはいきません。
昭和30年代初頭は、「月光仮面効果」で交通安全を推進していけた素朴な時代でもありました。
奄美まつりのパレードでも人気抜群の月光仮面(正体は西星公君)
交通安全パレードで活躍する月光仮面
いつも子供たちがヒーローを追ってきました。
ミュージックサイレン
それまで名瀬で時報の役割を果たしていたのは消防署のけたたましいサイレンでした。
もしも、それが世界の名曲であったとしたら、市民の情操にも大いにプラスになるだろうという考えから、名瀬市はミュージックサイレンという機器をおがみ山の頂上へ設置する事になりました。
設置費用は140万円で、その内訳は名瀬市から30万円、一般からの寄付が110万円というものでした。
ヤマハから、ミュージックサイレン設置のためのスタッフとして松熊さん、川上さんといった方々が来島されました。
こうして、11月におがみ山公園にミュージックサイレン台が完成し、文化の日から、時を告げる音楽が名瀬市内に流れるようになりました。
朝の6時に【吹け春風】、
昼の12時に【埴生の宿】、
夕方5時に【ラルゴ(家路)】、
午後10時に【ブラームスの子守唄】が、市民の生活にメリハリを付けるかのように鳴り響きました。
その頃の電力事情で、充分な電気の供給が出来ずパワー不足が原因となって、動きが止まったり、故障することが多かったのでした。私は市役所から
「おがみ山のサイレンが鳴らない!」
という連絡を受けるたびに、サイレン台へと走り、メンテナンスを行いました。
あまりにそれが頻繁になったため、会社内の手の空いている者が山へ登ったり、仕舞いには専任者を決めたりしましたが、ミュージックサイレンも開店休業の時期がだんだん増えてゆき、いつしかこの【ミュージックサイレン】は【気違いサイレン】とか言われるようになり市民の間から忘れ去られてゆきました。
昭和44年に最後の音が止み、ミュージックサイレンは、思い出のかなたへと消えてゆきました。
子供たちでにぎわうミュージックサイレン台 昭和33年10月末