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母の死

 セントラル楽器の経営状態は、最悪でした。なにしろ、毎月の水道・光熱費、楽器リース料、人件費など支払額は決まっているのに、売り上げが全く伸びないのです。いや、それどころか落ち込み始めていたのでした。これは切り詰めるしか法はないと、私は、当時会社でとっていた新聞を止めたり、ロータリークラブを辞めて毎月の会費をうかせたり、付き合いでやっていた雑誌、保険など、考えられるありとあらゆる支出をカットしました。乗っていた車も売却しましたし、私の給料も、50万円から12万円に下げ、家内は以降6年間給料無しでした。

 そんな中、12月11日に、私たち兄弟姉妹、孫たちに看取られて母は静かに逝ってしまいました。普通なら忌中の張り紙をして会社を休みにするところですが、私は本当に追い込まれていて、母にすまないというよりも、その休業する数日が惜しいという状態でした。世間体も何もない、ただ【会社を立て直すこと】…考えるのは、それだけでした。
 出張の飛行機の中でも、エアポケットに入って機ががくんと下がったときなどは、
「落ちてくれ!俺の生命保険で会社が救われるんだっ!」
と、そんなことばかり考えていた時期だったのです。
「このままでは、わが社は倒産してしまう、毎月の支払い金額等の変更をして欲しい。」
と熊本の中小企業金融公庫に支払いの変更を申し出ました。
「今、セントラル楽器さんが融資を受けている地元金融機関(開発基金や鹿児島銀行)も同じにするという事で了承しましょう。」
という条件でOKを貰いました。その後、考えられるだけの、また、打てる手はすべて打ちました。

 昭和56年から行っていた会社の建て直しは、7年後の昭和62年10月決算でやっと黒字に転化し、私も肩の荷を下ろすことができました。